160.金融資本主義の終焉と未来

社会構造システムの中心が金融資本主義である今、銀行がこれ以上有利な状況でも詐欺をしてしまったら、この世は終わりではないでしょうか?

私の場合、47年前に日本で生まれてみたら、すでに相当数の銀行が存在していました。そして、「信用創造」と政府がいくらでも紙幣を発行でき、それを各銀行にばら撒く、という幻想的な社会が構築されていたわけです。

当然、7歳でアメリカに移住してもそこには膨大な数の銀行は存在しており、可哀想にそれ以外の世界を私は知らないわけです。

しかも、当の銀行員ですら信用創造の実態を知らないわけで、この暗闇の仕組みには何か強い執念深さを感じます。このままどっぷり浸かってしまえば、人間らしさと引き換える条件付きなのも恐ろしく思います。

実は、貨幣経済への本格的な移行は500年ほど前のことで、それまで人類は自然の一部と暮らしていました。しかし、首が回らなくなったのはこの50年ほどで、特に日本は諸外国とは地理的に隔離された島国であり、独自の自然法を軸に回ってしまっています。

ところが、明治維新というクーデターによって日本は諸外国から一段も二段も低く扱われるようになり、その後は猫も杓子も欧米かぶれになり果て、これまでの日本的伝統は破棄され、欧米列強と並ぼうとしたことで、現在では甚だしい自虐史観の嵐となっています。

この中心にいたのが、いわゆる「ユダヤ人という金貸し」で、これまでの日本独自の仕組みはすり替わり、実に巧妙に日本は信用創造と金融資本主義の術中に嵌っていったわけです。

いつの世でも、利益という名のニンジンは強力な魅力があり、誰しもこの魅力には抗しきれません。それが鼻先にぶら下がっているのに飛びつかないわけがないわけです。お金と麻薬はよく似ており、それさえあればこの世は極楽で、一時的な快楽でも早い者勝ちとされています。

ところが、日本人が約150年前以前に長年培った意識は、今のご利益主義とは一線を画す生き方であったことから、武士や町民、農民でさえ紙幣経済サイクルの背景にある自然の流れに照準を合わせて生きていました。

今、起きている本当のことは、この世は肉体を取り巻く世界だけではないということです。人によって様々な基準がありますが、レベルが高ければ世界の構造が普通とは異なって見えてきます。しかし、高い/低いは物理世界の基準でしかなく、高ければ高尚、低ければ低俗とそう簡単に決めつけるわけにもいきません。

だからこそ、線や面ではなく、もっと立体的に物事を考える必要があるということです。例えば、輪であればそこで途切れずに別の輪の底辺につながることから、上の方へ徐々に上昇していきます。これも上に上昇していけば、浮き世のほとんどのことに興味を失うことになるはずです。

それでも高みを目指していけば、やがて自己認識の境界線が消え、果てしない広がりと同等の一部になり、そこに在ることである空間を生み出していくことになります。つまり、レベルの高さは場のエネルギーとつながっているわけです。

では、逆に際限なくどん底まで下落していくと一体どうなるのでしょうか?

答えは、この世の悦楽や快感、それと同じくらいの不快、恐怖を味わいながら下落していくことになります。しばらくすると、本格的な人格崩壊が始まり、それと引き換えに「お金」や「異性」など物理世界の利益が転がり込んで来ます。

使い切れないほどの紙幣や広大な領土、我が世の春それでも欲望は果てしないわけです。当然、これは錯覚であって、物理世界に所有できるモノは何一つありません。やがて肉体の死が来ますが、あっさりと幽界からも転げ落ち、さらに下の空間へ落下していくことになります。

私たちが存在するには、存在を許容する場や空間が必要です。そもそも下落するから場が無くなるのか、場が無くなったから下落するのか?辛うじて、猛烈な速度で堕ちる最後の感覚があるかも知れません。

私たち人類は今、意識レベルの反転攻勢に転じ始めています。これまでの物理的な軸を捨て、上昇スパイラルの軸に乗る必要があるということです。今一度、誰しも天寿を全うするだけのエネルギーを持って生まれてきていることを確認するべきです。

現在のように、戦争経済の原因である金融資本主義だけが軸で回る世界に未来はありません。こんな簡単な理屈など誰でも知っているはずです。それでも切り替えずに、「今だけ、カネだけ、自分だけ」を選択する「人間(役割や使命を持つ人ではない)」が生きられる場は、遠からず地球から消えていくでしょう。

159.「21世紀型人類」の時代が来つつある

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