161.「誰からも邪魔をされずに気ままに暮らせる」とは、自ら主権放棄をしているだけのこと

現在のところ、私たちが今住んでいる場所こそが最小行政単位となっているのが現状です。そして、そこに自治会や町内会のようなものがあれば、それがコミュニティーの単位ということになります。

また、両隣の延長線上で大小様々なコミュニティーが広がっていますが、行政区分の番地は普段あまり気にすることはありません。

それよりも、学区や行政上の区分よりも地上のエネルギーの上に立つ人間同士のつながりの方が重要であることは明らかです。当然、そこには好ましい人も住んでいれば、好ましくない人間も住んでいます。しかし、現在その場所に住んでいる事実は変えようがありません。

巨大台風や大地震や津波、洪水、大火などの大規模な天災や人災が発生すれば、この地域もろとも共にお陀仏となる可能性があります。たまにその一帯だけ無傷である場合もあります。これは人知を超えた領域であり、否応なしの運命共同体とも言えそうです。

いずれにしても、人には移動の自由があり、人生の中で何度も移動を繰り返す人もいます。私自身、それを理想の生き方と考えていますが、現住所は必要です。周辺に住民がいれば、その方たちは私と運命を共にする共同体となるわけです。

早い話、どんな方が近所に住んでいるかを知るだけでもいいように思います。そして、顔を合わせれば自然と挨拶を交わし、既存の自治会や町内会などで穏やかな連帯を繋ぐことはとても重要です。

そもそも最小行政単位は、役所の決めるものではなく、本当は住民主体で決めるものです。これが主権の第一歩であり、最も足下にある個人の自立、独立、そして協調の単位ということです。ところが、日本の大都市の場合、現状このような連帯はほとんどの場合、希薄です。

一応、回覧板の名簿には自分の名前が載っていますが、役員など誰もやりたがりません。なぜなら、まるで政治家のような傲慢な会長が鬱陶しかったり、実は業者に賄賂を要求するような者もいるからです。そんな自治会や町内会は、今からでも内側から刷新しておくべきです。

例えば、本当に災害に見舞われた場合、国や県はもとより、市町村の救済が及ぶまでに数日を要します。実際に、東日本大震災の被災地では、1週間以上も助けが来なかった集落がありました。昨年の台風15号や19号でも未だに多くの被災者がいます。

災害が発生してから72時間が運命の分かれ目で、助かる命も助からないことも少なくありません。頼りになるのは地域の連帯であることは明らかです。しかし、それが形式ばかりなのは戦後75年もの間、日本に主権がないためです。

未だに日本の主権はアメリカにあり、GHQから米軍へと断片化な政策は続いています。行政は自治会や町内会をつくるように促していますが、本当は市町村の行政が便利な下部組織にしておきたいという魂胆が見え見えです。つまり、形式だけにしておきたいということです。

特に、都市部ではその傾向が顕著に現れており、両隣りはもちろん、集合住宅の住人すらも面識がないというのが現状です。近所に親族が住んでいるわけでもなく、実際は恐ろしいほどに孤立しています。

「誰からも邪魔をされずに気ままに暮らせる」と人々は口々に言いますが、これでは日本国民として自ら主権放棄をしているようなものです。そして、二言目には「プライバシー侵害」と主張しています。つまり、どこの誰とも知らない他人の干渉は一切受けたくないというわけです。

一人暮らしもいいかもしれませんが、子どもがいるならいずれ地域の連帯は避けられません。あるいは、要介護の高齢者も同じことが言えそうです。世話をする人がいればいいですが、独居老人世帯も少なくありません。

結局、現在60歳以上の世代が地域コミュニティーを軽視し、孤立するスタイルを好んだことから始まった、あるいはそう仕向けられたわけです。そして、その子世代に当たる30代、40代も自然と自治会的なつながりを避けるようになりました。これこそ支配者層のの思惑通りということです。

そして、それが高じて親族や準親族的な付き合いもやめるようになり、家と学校、家と職場、その間のコンビニやスーパーに行くしかなくなり、地域との関係は恐ろしいほど希薄になっており、希薄なまま孤立し、気がつけば独居高齢者に自分がなってしまったわけです。

そこで社会制度の介護が必要になるわけですが、そうなると自宅の畳の上では死ねなくなり、病院や介護施設ということになっています。しかし、死に方はまた別の話かもしれません。

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