価値観を共有(シェア)する社会・会社づくり

⑩「善悪」という価値観の共有

利権構造によって、政治家や官僚、地方公務員、そして彼らと関係を持つ企業、個人の贈収賄事件が次々と明るみになってきました。

今後、「善悪」という価値観が明確に尊重されていく社会となっていくことは明らかです。健康で持続可能な社会・会社づくりを目指すのであれば、人はあまり迷うことなく善悪の価値観を持つことができるようになります。

これまでの常識では、あらゆる価値観や善悪の基準が相対化され、仕事や生活で善悪という価値観はあまり尊重されていませんでした。裁判に勝ちさえすればそれが正義であり、善になるという風潮が蔓延したことで私たちは自分の生き方に自信を持って判断する基準を失ってしまっています。

しかし、実際に世の中を観察していると、善の行いや考え方を持つ「人」と、悪の行いや考え方をもつ「人間」は多少のグレーゾーンを挟みながら存在しています。肉眼では見えないほど小さい字で契約書が記載されているため、トラブルになってから契約違反と言われたりすることもあります。

また、消費者には理解できない専門用語を使って消費者が望まない商品やサービスを提供することは、法律的には違法性がなくても相手の気持ちを害するものであり、このような会社や個人は自然と排除されていきます。

今後、私たちが生活する社会では基本的に相手を信用する、性善説というもので成立する必要があります。だからこそ、相手を裏切ったら二度とその場に戻ってくることができない、悪いことをしたら横のネットワークからは追放されてしまうという形で制裁が行われていくわけです。

そのため、人は自然に互いに信用できる相手を探すようになり、交渉や法律よりも信用で共有を成立させるという姿に落ち着いていきます。そして、その信用の土台にあるのが善悪という価値観であり、善を求めてやまない人々の気持ちであることが社会全体に拡がっていきます。

⑪世界に広がる価値観の共有

商品やサービスを供給する会社という観点から考えていくと、インターネットで世界とつながっている以上、その価値観は誰とでも共有できるのが特徴です。しかも、その応用範囲は無限にあり、あらゆる産業で活躍できる可能性を秘めています。

つまり、健康で持続可能であるということを善と考え、善に則した生活や仕事を求める人たちとその価値観を共有しようとする意思と実力がある人であれば、誰でも世界中の人々とネットワークを持つことができるわけです。

人々が求めるものはそれぞれ個性がありますが、決して価格が安いばかりのものではなく、逆に価格が高いものばかりでもありません。有名なブランドばかりでもなく、大量に売れているものばかりとは限りません。

結局、最後は好き嫌いや気持ちが大事になってくることから、さらに個性が尊重され、その個性によって付き合うお客さんが決まってくるという世界が存在しています。今後、大企業よりも中小零細企業、あるいは個人でやっているほうが活動しやすくなると思われます。

これから生活を支える産業構造と、その延長線上にある「価値観の共有」を土台にした社会の産業構造というのは、あらゆる分野にわたって無差別で個性的で優れた品質を持つ会社が網の目のようなネットワークのなかで活動していくという姿に落ち着くものと考えられます。

この世界で有名ブランドだけが他を圧倒することはなくなり、巨額の投資を行っても決して市場を席巻することはできなくなります。私たちが必要としているのは、ユニークなアイディアであり、個性的で経験豊富な人材です。

⑫経済学よりも経営学を学ぶ必要性

現代の経済学は、非常に視野が狭く、自由競争と効率性を基礎とした学問であることは明らかです。また、世界各国が巨額の財政赤字を抱えているように、国民に対してどのようにして嘘をつき通そうとするかの学問でしかありません。

2000年以降、日本はいきなり就職氷河期に陥り、20世紀の経済学が全く通用しなくなりました。20世紀の経済学の最大の間違いは、政治家や企業経営者、そして経済学者たちが経済を小さな範囲で考えてしまっていたからです。

だから、21世紀の経済学というのは、「自然循環という考え方」と「善悪という価値観」を加えたものになるものと考えられます。

⑬正しい価値が生まれる方法

これまでの経済学では、「価値」というものは労働によって生まれるとあります。しかし、価値は自然から与えられてくるものであり、その自然の恵みに人が十分に手をかけることで、最高の価値になると考えられます。

農作物を育てた経験のある人はご存知だと思いますが、植物を作り育てるのは自然です。人には菜の葉一枚作ることはできません。畑に芽を出す植物というのは、自然から与えられるものであり、自然に生える植物を放置したままでは農作物を収穫することはできないわけです。

つまり、人が丹精込めて手をかけて農作物として収穫することができるということです。このことは、英会話スクールで英語を教えたり、非公開の情報を伝えることも同じです。ただそこに座っていてもおカネは発生しますが、本当の付加価値というのはいかに丹精込めて接客を改善し、学習環境を整備し、上手に講師やテキストを使うかによって決まります。

英語ネイティブとスタッフ、テーブルとチェアー、そしてマニュアルを並べれば運営できるということは全くありません。教室にいかに人が丹精込めて手をかけるかで情報の最終的な品質と価値が決まります。

人を教育するということは、人は自然の力によって成長していくことと同じことです。しかし、なぜ人は古来教育というものに熱心であり続けたのかといえば、自然に育っていく人を人が丹精込めて教え導くことで、よりすばらしい人に成長していくからです。

こうして私たちは日常の仕事や生活の中で、あらゆるものの価値というのは自然が我々に与えてくれる一方的な恵みの上に、私たちが丹精込めて手をかけることで得られるものだということを、知ることができるということです。

INDEX

04.全員が対等な立場でつながる社会・会社づくり