社長メッセージ

 

3.「英語バカ」は、日本にいる全てのバカのシンボル的存在

「英語バカ」が「自尊心」のため、あるいは「優越・劣等コンプレックス」としての英語礼賛が英語だけの話なら、無視していれば良いだけです。なぜなら、貴重な金と時間が失われるだけで他に多大な迷惑が及ぶわけではないからです。しかし、話はそんなに簡単ではなく、「英語バカ」の存在は、生まれてきた土壌、つまり日本社会全体に通じる問題でもあります。

私たちは「英語バカ」を笑いますが、その私たちが他の「○○バカ」でない保証などどこにもありません。音楽バカや野球バカ、ブランド物バカ、おたくバカ、そしてそれらを統合する最強かつ最弱無比の「自分バカ」がいます。「英語バカ」はそのなかの一形態にすぎません。一形態にして、あらゆるバカのシンボル的存在として確立しているように思います。

そもそも英語ができるということは、日本社会だけではなく、世界で公認された能力価値です。「一芸に秀でる」という言葉がありますが、一芸とは一能のことであって、一能は自分の自尊心を支えてくれます。英語が堪能という一能は、本人が思い込みさえすればどんなお金持ちよりも高い価値として感じることが可能になるわけです。例えば、「あの人は大金持ちだけどバカだ、だって英語できないから」と、いうように使われています。

ところが、この一能もまた別の価値によって凌駕されることがあります。それは美質という容貌価値です。例えば、「あの人は英語ペラペラだけどブスじゃない」というようなことです。するとまた、この一美質に対する一能からの反撃に遭うことがあります。もうこれはヘビとマングースの闘いでしかありません。

「あの人はそこそこ美人かもしれないけど、バカじゃない」というように、金と能力と美、この三つ巴は良い勝負ですが、もちろん金と能力と美の全所持者が現れたらその人が一番となって試合終了になります。かと思いきや、いいや、そこでも細かい差異の闘いは続き、結局、不毛の闘いとなるほかありません。

この他にも人にとって大切な価値はあります。それは徳や人間性に関する価値、つまり人格の価値です。しかし、残念なことにこれだけでは食っていけません。例えば、「あの人はいい人だけどね」というのは褒め言葉であると同時に揶揄も含まれているのが分かります。

だからこの人格価値は、それを意味として認める人間にしか通用しなくなります。それは「いい人なんかつまらない人間だ」といわれる所以です。あなたを大金持ちか誠実な人間のどちらかに生まれ変わらせてやろうと神様からいわれたら、果たしてどっちを選択しますか?それはいうまでもありません。

100人中99人が大金持ちを選ぶはずです。理由はすでに述べましたが、誠実さが信条だけでは食っていけないからです。

99%の人間には、能力や容貌がどんなに逆立ちしても、やはりお金には勝てません。なぜなら、お金は生き死にに直結しているからです。それに資本主義的価値の中で最高の価値とみなされています。おまけにお金持ちは「カッコいい」と思われています。その昔、ホリエモンこと堀江貴文氏が「50億円ぴったりのほうが、カッコいいじゃん」と言った理由がうまく表現されています。

とはいえ、容貌も能力もまだ捨てたものではありません。美に執心する者、能力に執心する者は容易に自分の価値を放棄することがありません。なぜなら、放棄したとたんに自我が立ち行かなくなるからです。

現在の日本人はこの三つ巴の価値競争に席巻されています。席巻されているだけなら日本人に限ったことではないですが、最近の日本人は年々、狼狽し、足掻き、すがり、浅ましくなりつつあります。

誰もが世界公認の価値を獲得することができるわけではありません。公認された価値は欲しいものです。しかし、そのための苦労はしたくないようです。「だれか価値をくれないかなぁ」という玉の輿願望というものです。それも今すぐに欲しいというわけで、「くれないなら盗んでしまおうか」という犯罪に近いものです。もちろん、営々と努力する人は当然存在しています。

しかし、そんなものは真っ平という人間もそれに劣らず存在しているわけです。人は自分が無価値な人間と思うことに耐えられません。自分が何の価値も獲得していないと思う人間は2つに分かれます。自分はダメだと思う者と、自分こそが最高の価値なのだと思う者です。

自分勝手が許され放題に育ってきた者や、人格という価値を知らずに育った者は、自分こそが価値だと思っています。どうしても価値にしなければならないようです。そのため、この自分という価値は、他人に示し、他人から認められるべきである、というようになっていきます。

「この不遇は自分が悪いのではない、親や世間が悪いのだ」というように、その耐性のない精神の根底を、自由、平等、権利、個性といった美辞麗句が支えています。そこから「自分こそが最高価値」と妄想する「自分バカ」が発生するわけです。自分の思い通りにならないとすぐに感情を破裂させる「バカ」の誕生です。

しかし、当たり前のことですが、そんな人間たちも腹の底から自分に自信があるわけではありません。だから彼・彼女らの中には絶対安全な場所に身を隠し、ネット上の匿名性の中に生き、そこから自分の価値を証明しようとします。自分が露出してしまえばバカが露見してしまうので、妄想の中で自分で自分に酔いしれたいわけです。

他人を自分以下にしておいて、自分の価値を確認したいと思う者がいます。弱い者を自分の支配下に置こうとする者もいます。人が認めてくれないならどんな手を使ってでも自分を証明してやる、と思う者もいます。

とにかく自分を自分たらしめる力が欲しいようです。しかし、その方法が間違っています。そもそも順序が逆です。考え方が間違っています。だから出発点から間違えることになります。だから目指すべき出口も間違えます。だから方向転換がなかなかできないのです。

私たち日本人の自我は、自由、平等、権利、個性という欧米のグローバルエリートが演出した言葉によって釣られてしまいました。さらに、価値の多様性、幸福、輝き、愛という言葉によって喜んで食いついてしまったわけです。針が硬くて外れないまま、餌が旨かったのかどうか、今ではもう覚えてもいないようです。それは、自尊心を守ることの方が痛いからそうなったのです。