憲法は、いつ、誰によって改正されるべきなのでしょうか?
今となってはタイミングは明らかになりました。日本が植民地を脱する工程表に添って相前後する時期がベストです。1%支配の終焉の際には、後になって生き残りが一匹たりとも生き返らないように徹底的に処分した後です。
これができたということは、日本人の意識がおしなべてクリアになったということになりますが、現在のクリア度は視界は1キロ未満というところでしょう。しかし、いつ憲法改正するかは不透明ですが、そうのんびりもしていられません。そして誰がするかも不透明ですが、植民地憲法をそのまま使い続けるわけにはいかないのです。
特に三権分裂、植民地経営関連法案は全廃し、富国強兵官僚支配関連法も全廃するのはどうでしょう。学者、学生、農家、芸術家、サラリーマンなど誰でもいいので、「俺はこんな憲法にしたい」「俺に任せろ」で草案を書いてもらうのです。
これに関して法律の専門家など特別な資格無しには応募できないという縛りはなくします。基本、子どもでも良しとするべきです。中央の一カ所に集めて審査するのも廃止。例えば一つの県を3つくらいのエリアにわけて、各エリアから最も良いと思われる草案を抽出し、一般市民全員が自由に読めるようにします。
読んだ人がこれがいい、と指名できたり、絞り込まれた何本かの草案に注文を付けることも可能です。それはそれで議論したらいいでしょう。専門家は専門家の立場から、整合性や他の文脈との関連を精査してもらいます。
プロセスはその時の当事者に任せるとしても、最後は国民の信を問う意味で全員参加のインターネット投票で。もちろん、今のインターネット環境ではありません。現在のネット環境では白が黒になってしまうからです。
一体いつになったら日本は植民地をやめるのでしょうか?
出来れば今日にでもしたいくらいですが、1%からの植民地と決別する、しないはまずは各自の意識から始まります。何も時期を揃える必要はないのかもしれません。あとは、どうしても過去の因習から抜けられない人とか、トラウマが強過ぎる人も出てくるでしょうが、全員が抜けるまで待つ必要もないでしょう。
すでに日本人の約10%以上は覚醒レベルに達しているようです。さらにその周辺を加えれば30%を超えていることになります。この層がこの先の日本をリードするのは自然の流れです。これは世界中でほぼ同時に始まり、遠からず横の連携も始まります。
さて、憲法改正ですが、聖徳太子の十七条憲法で充分ではないでしょうか?なぜなら、出来るだけシンプルにし、悪人がぶら下がるために原因となる解釈や余計な文言は一切不要だからです。
関連法規はあってもいいですが、常に暫定的な位置づけにしておき、微細条項も適当にしておくのがいいでしょう。細則は、新しい事態に直面した時々、解釈ではないルールの最適化を精査します。その時、過去の判例がどうのこうの、一度固めた法則に固執すれば法律条項は死ぬことになります。もちろん、立法府なんてモノは廃止。それで全然問題はないはずです。
なぜなら、地球には自然法があり、それが自然循環しているからです。何も文言で法の体系を作る必要はないのです。しかし、自然法の理解は人それぞれのレベルよって異なります。多少ばらつきがあってもそれでいいのです。なぜなら、理解と言っても脳で理解するのではないからです。
これを科学と見なして追求する人もいるでしょうが、次元を超越するので科学の枠に押し込めるのは無理があります。例えば、自然法は、あらゆる問題を解決するツールになります。自然法に準拠するなら、あらゆる地上の問題は解決可能になります。それをわざわざ袋小路に追いつめ、文言で縛るのは植民地憲法と同じになります。そんなモノは要りません。
「では、司祭のように物事を見極める、あるいは審判をする専門家が必要でしょうか?」
それも要りません。
「では、誰が審判するのでしょうか?」 それは自然法を解する普通の人間です。
「では、どれほど深く精通しているかの試験があるのでしょうか?」 もちろん、そんなものはありません。
「では、どうしてそれが最適な解決方法だとわかるのでしょうか?」 理に叶うからです。
別に難しいことは何もありません。理に叶えば誰もが納得するはずです。無理もなく、無駄もなく、公平です。誰も相手にしないTPPを批准して、今度は自衛隊の海外派遣、戦争参加を可能にするというのはトンチンカンも極まれりです。 |