ついこの間まで、何かと言えば「証拠を出せ」という人間が大勢いました。最近それを言わなくなったのは「証拠を出すまでもない」からです。おおよそ、悪の実態は誰の目にも明らかになっているのです。
ただ、それにしても、ワイドショー的な白黒でしか物事を判断しない頑迷な人々が日本には大勢います。この層のお陰で悪がいまだに中央集権に居座っています。そのポチも企業にしがみついています。日一日と悪をのさばらせる元凶の罪は加算されていくのです。彼・彼女らの決まり文句はこうです。
「事実がはっきりしたら認める」 「事実がはっきりしたら従っても良い」
そう、彼・彼女らには想像力などなく、結論ありき以外で意識を使うループも持ち合わせていません。それ以前に認めようと、従おうと勝手にすればいいのですが、何を偉そうに上から目線なのでしょうか?
要するに、どんな問題があっても、判断を自らの内側に引き込まず、外部から眺めるスタンスで見ているので誰かの判断に噛み付きはしますが、自分の判断は常に外部に預ける態度になるというわけです。ずる賢いように見えますが、単に上辺だけの人間なのです。
君らが認めようと従おうと、こちらがお願いする筋合いはまったくありません。事実は、どちらが優位とか上下関係とか関係なしに事実なのです。事実は誰の専権事項でもなく、誰しも同じ目線で自らの意識を駆使するしかないのです。
少し頭の良い子どもは、真実が明るみに出る前に然るべき対処を取る傾向があります。例えば、兄弟分しかないアイスを先に食べてしまった。さあ、どうする?
一番いいのは、自分は食べずに配分することです。それを先んじてやれば、盗み食いした事実は消えまえんが、幾分緩和されるでしょう。最悪なのは他の誰かが分け前にありつけないのに、自分だけ2つ食べ、そしてシラを切ることです。
このような人間がまず政府のトップであり、民間にも溢れているのです。中央集権に居座っている人間たちはほぼ100%同類といえます。そして追求されると、「事実を証明しろ」「証明したら受け入れる」と言うのです。
もちろん受け入れる気ははじめからサラサラなく、のらりくらりと受け流し、それでもダメなら配下の弱い者を血祭りに上げるのです。この手の話には必ず、軽いケースでは意味のない裁判沙汰になり、重いケースでは自殺者か原因不明の変死体が出ます。
事実が99%確定でも、1%のグレーゾーンを盾にしてきます。普通、99%ならば任意同行じゃ済まないというわけです。間違いなく取調室の理論なのです。ですから、今頃刑事、あるいは検察官の取り調べを受けていなければおかしいのです。それが法治国家というものだからです。
ところが、それを逆手に取る共謀罪ですが、こららの事実には目をつぶり、あちらの事実には人権無視で取り締まるというわけです。ある意味、ワイドショー的な白黒、善悪の二元論でしか物事を判断しない頑迷な人々が招いた混迷と言えます。
このような人間は永遠に事実を知ることはありません。仮に目の前に並べても、何が事実かそもそも判断能力がないのです。なぜなら、事実は原因の内側にあって、ほぼ同時進行で決着に向かうからです。そして、決着が全てはなくなるのです。
事実、裁判を見てもいくら文言を切り貼りして物事を判じた所で、納得のいく結論にほど遠いことが分かります。むしろ、以前にも増して曖昧で、三次元ご利益裁判の及ぶ範囲は狭過ぎて話にならないのです。
そもそも悪い人間はある意味、裁判の限界を知り尽くしているので歯牙にもかけません。彼らは司法制度が絵に描いた餅だと知っています。手前味噌な都合の良い事実だけを言い、いくらでも逃げられるのです。残念ですが、これも事実です。
ということで、まともな意識の持ち主は「証拠を出せ」とは決して言いません。「事実がはっきりしたら従う」とも、言わないのです。「事実がはっきりしたら従う」という人間はすでに手遅れなのです。なぜなら、手遅れを相手にすれば手遅れになるからです。
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